ニート述懐

取りこぼしてきた社会性をすぐ拾えるようにしておきたい

バーチャルYoutuberはジャンルなんかじゃない

 

という温めてきた個人的解釈をここに書き記しておきたい。

 

自分は去年の2月半ばからキズナアイちゃんを知ってしばらく追ってたし、12月の爆発的な流行から今に至るまでニートの有り余る時間を使ってこの界隈を追っかけ続けてきている。

現在絶賛ほったらかし中だが、バーチャルYoutuber用のサブブログを作って記事を書いてたくらいには好きだ。

 

そしたらここのところチマチマとしょうもない記事を書いていた自分の目に

Vtuber市場、供給過多で早くも飽和気味」とかいうブコメが沢山ついてるバーチャルYoutuberの記事が飛び込んできたじゃないですか。

まぁ記事っていうか内容全てTwitter引用だけのまとめ(笑)だったけど。

 

また最近、バーチャルYoutuberさん自身からこの界隈の行く末について、あるいは衰退論的な話が出たりして一部で話題にもなっていた。

 

 どっちもなんか違うんだよなぁ~ と正直自分は思った。

 

いや別にそんな的外れなこと言ってたとかではなく、バーチャルYoutuberというものの捉え方が違うなって。

 

狭義のバーチャルYoutuber

 バーチャルYoutuberという言葉を2つに分解したとして彼らはどちらかというと「Youtuber」のお話をしているわけね。

再生数が横ばいだの、一部以外の個人勢の登録者が伸び悩んでるだの、リアルのYoutuberと比べてコストがかかるだの、出来ることの幅がまだ狭いだの。

 

 これはデジタル、キャラクターコンテンツの一ジャンル、はたまたYoutuberの中の一ジャンルとして捉えているってことだとすれば間違っちゃあいない。

 

確かに、バーチャルなキャラクターがYoutubeなり他のプラットフォームなりからで広く食っていけるようになるまで成長することは、継続性の観点から重要なことだし、そうなったら夢のあることだと思う。

 

でも、あえて大げさな言葉を使うけど、バーチャルYoutuberの本質ってそこ?

キャラクターがいて、コンテンツを提供して、ファンが消費する。そんな世の中に腐るほどある、単に消費されいつかそんなのもあったよねと言われるかも知れぬただの一ジャンルなのか?

 

いいや、違うね。そんなチャチなもんじゃないはずだ。 

自分はもっと広い概念でバーチャルYoutuberってものを捉えている。

 

広義のバーチャルYoutuber

バーチャルYoutuberが決定的に他のジャンルと違う点は、リアルの肉体とは別に、バーチャルの肉体も持てるんだよっていう新しい価値観を、バーチャル上だけに留まらず、現実世界にも徐々に侵食しながら、我々にその身で以て教えてくれていることにある。

 

ただ可愛いとか面白いとか目新しいとかじゃなくてさ、もっと別次元の話なわけよ。

コンテンツという「中身」よりも、その「中身」を何に入れて届けているか、その「入れ物」でやっていることでバーチャルという新しい選択肢を提示してくれている、そのことにこそバーチャルYoutuberの意義がある。

 

そこで自分が考える広義のバーチャルYoutuberとは、「リアルの肉体ではない、バーチャルな身体性のあるアバターでの表現形態、あるいは活動形態」だ。

 

ここで重要なのは、身体性が強く感じられるところにある。

アバター自体はそれこそかなり前から至るところに存在している。Twitterのアイコンだってアバターみたいなもんだし、ユーザーが操作するゲームの3Dキャラクターだってアバターだ。

 

それでも多くのバーチャルYoutuberがそれらと違って特徴的なのが、トラッキングをしており、本人とアバターの身体がリンクした表現がある程度可能なことにある。

こういう言い方が適切なのかは分からないが、本人の肉体の延長線上にあるように感じられることで、アバターがもう一つの自分の肉体であるかのような認識が格段に高いのだろう。

 

このことを非常に端的に表したものが、バーチャルYoutuberミソシタの『革命前夜』の歌詞にある。 

Realじゃないが Fakeでもない

俺らはVirtual

バーチャルyoutuber ポエムコア『ミソシタ#11』革命前夜 - YouTube

 

リアルの身体とはもちろん違うし、かといって肉体との連動性がかなり薄いそれまでのアバターのように見せかけのものではない。

見かけはフェイクのようだが、実態はリアルに近い新しいスタイル、「バーチャル」だと。

 

要は新たな活動スタイルなんだよ、それもリアルかバーチャルかっていうくらい射程が広い。

 

リアルってジャンルですか???

んなわけなーよなぁ!!

つまりバーチャルもそういうことだよ。

 

ただ、『バーチャルYoutuberはジャンルなんかじゃない 』というタイトルだが、

正しくは『(自分の考える広義の)バーチャルYoutuberはジャンルなんか(に収まり切る概念)じゃない』であり、狭義のバーチャルYoutuberはジャンルであることは間違いない。

 

上記に挙げた活動スタイルの概念を一言で表せる言葉がまだない上に、バーチャルYoutuberの出現とそれに対する反響が確実にエポックメイキングな出来事だったので、便宜上バーチャルYoutuberという言葉で説明しているだけのことである。

 

あるいはバーチャルYoutuber出現以前は、単に現実のものではなく、リアルとほぼ切り離されたものというニュアンスで多く使われていた「バーチャル」がそれを表す言葉にこれからなっていくのかもしれない。

 

とはいえ、狭義のバーチャルYoutuberと広義のバーチャルYoutuberの区別がややこしいので、この記事では広義の方をバーチャルスタイル」とでも名付けようか。

 

バーチャルYoutuberバーチャルスタイルの行く末

冒頭にあった、バーチャルYoutuberというジャンルがこれからどうなっていくのか?みたいなのに関しては、いや知らんがな、だよ。

現状リーチ出来る層がまだまだ薄いし、バーチャルYoutuber自体の多様性はあれどニッチなもので伸びるのはかなり厳しいし、技術力がなければ資本が出来ることに直結してくるし、個人勢は完全に企業勢と同じ土俵に立たされているしで、既存のYoutuberと比べて食ってくのがキツそうに見えるのはまぁねって感じ。

でも当事者のバーチャルYoutuber自身が考えるならともかく、あんまりファンがうだうだ先のこと杞憂するくらいなら、コメント欄やらTwitterにでも感想書いたり、ちょっぴりお金を出したりして活動を応援するほうが100万倍有益なことだよ。

 

そして仮に将来バーチャルYoutuberが一握りの企業勢以外、軒並み淘汰されてしまったとしても、バーチャルスタイル」自体は1億%これからは当たり前のことになっていく。

これにはニートである自分のなけなしの全財産賭けてもいいくらいの確信がある。

 

 ・変身願望

まず自分のものではない身体になってみたいという需要はまぁかなりある。

それが身体的コンプレックスによるものだったり、加齢によるものだったり、はたまた純粋に美少女になってみたいとかだったりかは様々だろうが。

ARでリアルを補正するみたいな方法も出てくるかも知れないが、現実とかけ離れている場合にはバーチャルでなければ無理だろう。

 

VR世界

また、現実世界ではなく仮想世界に行ってみたいという需要、まぁVRだね、これも多くの面白いコンテンツと比較的安価なデバイスが出れば爆発的に今より伸びるだろう。

VR会議みたいな距離の制約を取っ払う系はかなり来そうだと思ってるけどなぁ。同じ空間にいられるから共有できるものの多さがリアルにかなり近づくし。

そうすっとVRに行くとなればリアルの肉体じゃあ無理なので、当然バーチャルな身体が必要となる。

 

・ARの普及 

あとはARが普及したら、リアルとバーチャルの世界の境界がどんどん曖昧になって凄いごちゃ混ぜになっていくと思うんだよね。今ですらあたかもバーチャルの存在がリアルにいるみたいな技術が出来てきている。

そういうどちらも混在していることが普通の感覚になれば、そらバーチャルの活動範囲はリアルにももっと広がるし、バーチャルスタイルも普通のことになるのでは。

 

このような時代が到来するとしたら、今のネットにあるハンドルネームみたいなその個人を表す記号の一つとして、バーチャルのアバターもそれに加わるくらいポピュラーなものになるのではないかと思っている。

 

 

今はこの「バーチャルスタイル」の中で、何らかのコンテンツを動画や生放送で提供する活動をしているバーチャルYoutuberが目立った存在ではあるけど、コンテンツを提供してなくたってバーチャルのアバターを使っていれば「バーチャルスタイル」であることに変わりはない。

そしてそういうもっとカジュアルなバーチャルのアバター社会がこれからより広く形成されていくであろうことに何一つ疑いを持っていないし、そんな社会であればバーチャルYoutuberに限らずバーチャルのアバターで何かパフォーマンスをすること自体ありふれたものになっているだろう。

だから今の時点でバーチャルYoutuberが衰退していっちゃう~とかだかは全くもって気にする必要がない。せいぜい「バーチャルスタイル」の広まりが、遅くなるか早まるかくらいの違いしか生まれないのでは?

 

もちろん推しのバーチャルYoutuberの活動が危ぶまれることはあるかもしれないが、繰り返しにはなるけどもそれに対してファンが出来ることは活動を応援し続けていくことくらいだろう。

しかし、そもそも「バーチャルスタイル」の需要が増えれば自ずと活動コストも下がっていくだろうし、金にならずとも本人にやる気があれば趣味で続けていくことくらいは出来るんじゃないかな。

 

 

まぁリアルじゃないがフェイクでもない、この「バーチャル」というものにまだまだ馴染みがなく、今はまだよちよちと歩き始めたくらいなもんだからね。

そう、言うなれば

ようやくのぼりはじめたばかりだからな

このはてしなく遠いバーチャル坂をよ…

 

え?打ち切りフラグだって?

いやいやご安心下さい。

元ネタの「男坂」は30年経ってきちんと再開しています。 

                               

同じく30年もあれば、 「バーチャル」に対応した人類にupd8(アップデート)されてる頃なんじゃないでしょうかね。

 

 

エモいという言葉が内包するもの

 

ちょっと前からのこの言葉については聞いていたが

最近よく耳にするようになり、使われる場面に特徴があるなと

感じているのでそれについて書きたい。

 

元々は音楽のジャンルでうんたらかんたらとかいう

語源についてはどうでもいいので省く。

「ヤバい」と同じようにカジュアルに使われているといった話も聞くが

もう少し限定されたニュアンスで使用されていると個人的には思う。

 

「エモい」とは、ハイコンテクストなストーリー性のあるものが対象から感じ取られ、それに伴って発生した感情を表す時に使われていることが多いと思っている。

 

エモいの代表的な具体例みたいなのがないからうまい説明が難しいんだけど

例えば今夏なので、Whiteberryの「夏祭り」という曲にエモさを感じたとする。

 

この曲ってくっそ雑に要約すると、好きな人と昔夏祭りに行ったことがあったねって話なんだけど、歌詞のワードで打ち上げ花火・浴衣姿・金魚すくい・綿菓子・線香花火とか色々散りばめられてるの。

 

これってさ、たぶん日本人以外が聞いてもあんまりピンとこないと思うんだよね。

でも大半の日本人はなんとなく共感できたりする曲なんだと思う。

なぜなら夏休みに好きな人と夏祭りに出掛けて花火を見に行くの凄く良いよね!っていう価値観が広く共有されているものであるから。

しかも、普段は着ない浴衣姿であったり、出店では金魚すくいやわたあめとかがあるっていうのも連鎖的に想像が容易に出来てしまう。

昔似たようなことを経験した人はあぁそんなこともあったなという思いに浸れるし、実際そういう体験がなかった人でもこういうのあったらなぁとか逆に自分の現実とのギャップでくるものがあるかもしれない。

 

これは夏休み=夏祭り=青春みたいな図式が、日本で普通に生活していればメディアなりなんなりで植え付けられる文化なんだわな。

 

これとは少し違うが、似たようなものの例として好きなコピペを挙げると

AA略

そうだ
これは夢なんだ
ぼくは今、夢を見ているんだ
目が覚めたとき、
ぼくはまだ12歳
起きたらラジオ体操に行って、
朝ご飯を食べて、涼しい午前中にスイカを食べながら宿題して、
午後から友達とプールにいっておもいっきり遊ぶんだ・・・

 

こういったある種、ラジオ体操行ってスイカ食べてプールに行くという小学生の夏休みの象徴みたいなものが共有されているからこそコピペになりうるわけだ。

 

こういうハイコンテクストなもの、ざっくりと言ってしまえば内輪ネタ的な、ある一定の価値観を共有していないと伝わらないもの、逆に言えばその価値観を共有しているなら雰囲気や特定のワードで文脈が想像出来てしまうものに「エモい」って言葉が使われやすいんじゃないかと思ってる。

 

ハイコンテクストであるからこそ、その背景を全く知らない人にとっては複雑すぎて伝えることが難しく、でも知ってる人にはなんとなく分かってしまう、そんな感情を一言で表すのに便利だったのが「エモい」なんじゃないかな。

まぁそもそも音楽自体を言語化するのって難しいし、自分の感情を他人に分かりやすく説明するのも難しいだろうから、一言でなんとなく説明出来てしまう「エモい」が流行しているってのもありそうだが。

 

また上でストーリー性のあるものと書いたのは、筋道立てているほうがわかりやすく、また感情も揺さぶられやすいだろうから。

あるいはなんらかの文脈が存在したときに、やはりそれぞれの物事の関連性に人間はなんらかの意味づけ、つまりストーリーに仕立て上げてしまう習性を持っているだろうってのもある。

 

対象から想起される文脈が、より複雑で深く鮮明であればあるほどエモ度合いっつーのが高いんじゃなかろうかといったところですかね。

ドロップアウトしていく過程

 

昨日は復帰してから毎日続けていた更新がストップした。

まぁ理由は23時過ぎにそろそろ書こうかなと思ったら

ルーターイカれてネットに繋げなくなっていたからなんだがね。

 

そういえばwifi飛ばせないけど別のルーターあったのを思い出して

今は無事に出来ているけども。でもFireTVでプライムビデオがみれんぐぬぬ・・・

 

元々毎日更新を頑張って続けていた理由は

そこもモチベーションとしておかないと

ブログ書き続けられないだろうなと思っていたから。

 

実際ブログの更新時間(URL)見てみたらわかると思うんだけど

殆どが0時直前なわけで、その時間くらい追い詰められないと書く気になれないの。

ぶっちゃけ書きかけを投稿して、その後編集して書き足すの何回もやったし。

 

 

話は少し変わるけど

新しい物事を始めるのは大変だ。

しばらく続けるのはもっと大変だ。

そしてしばらく続けても今回みたいにふと休んでしまうことがある。

 

それがやらなくちゃならんことだけど、あんまりやりたくないことだったりするとね

毎日更新してたけど1日休んじゃった…じゃあこれからもたまに休んでもいいかな。

で、このたまにが頻繁にあるいは1日休むのも2日休むのも変わらんしょとかなって

どーんどんどーんどんやらなくなってしまうんだよね。

そうして全然やらなくなってしまったら、別に楽しくかったしどうせ大して重要じゃないことだから大丈夫大丈夫という認知の修正が起こるんだよ。

 

こうして人はドロップアウトしていくのね。

もう本当に何度も色んなことで経験してるからよく分かる。

もちろんこういうパターン以外にもあるだろうけど

自分のはほとんどがこのパターンで色んなものを捨て去ってきた。

 

だから毎日更新が途切れたという免罪符を手に入れた自分が

いつまでこのブログを続けていられるのか正直自分でも全くわからん。

 

果たしてこの循環から抜け出すことが出来るのか、実験だね。

そしてもしブログをやめてしまった自分がこの記事を見返すことがあれば

何を思うのだろうか?やっぱりな、ってところかね。

 

ネット広告についての所感

 

割と自分なりに頑張って毎日記事を書いてるけど

どのくらい続けてりゃもちっと楽に書けるようになんのかなぁと思って

ブログについてちょっと調べたりしてたら

 

月〇〇万円ブログで稼ぐ!みたいな記事がウジャウジャと出てくるのを見てふと思った

 

こういうのっていわゆるアフィでPVとか広告クリック数に応じて?

収入を得ているんだろうけど、広告が実際購買活動にどの程度結びついてるのかね?

 

というのも自分はPC、スマホ問わず必ずアドブロック入れてるから

広告を目にする機会自体があんまりないんだよな。

スマホのアプリじゃ課金してないからブロック出来てないけど大して使わんしな。

ガキの頃はそんな知識もなく入れてなかったけど、金がないから意味ないし。

 

アドブロックって一般にはそこまで普及してないのか?

というか主戦場はスマホだし尚更って感じなのかな?

 

ていうかそもそも広告貼ってるサイトの内容と関係ないただの商品ページとかに飛ばされても、は?としかならないし買いたいとも思えないだろ。

 

実際その場で購入に至らなかったとしても

認知がされて後の判断材料となることもあるんだろうけど

やっぱり今ひとつピンとこないんだよな。

 

広告の影響が全然ないっていうことを言いたいんじゃなくて

現実じゃあ出来ないブロックが出来るし、タップミスとかじゃないとあんま開かない大して適切じゃなさそうなクリック型の広告って効果あるのけ?と思うわけなのよさ。

 

自分はどうやら回避型愛着スタイルっぽい

 

ちょっとずつ心理学の入門書を読んでいるわけだが

「愛着スタイル」というものが面白そうだったのでネットでも調べてみた。

 

「愛着スタイル」っていうのは乳児期に養育者にどのように育てられたかによって

こどもの性格傾向が分かれるみたいなやつ。

成人してもこの性格傾向はあんまり変わってないことが多いらしい。

かなり適当に要約してあるので、細かく知りたい人は自分で調べてね。

 

愛着スタイルで4つあるうちの一つ「回避型」に関して以下のサイトに詳しく載っていたのでそれと自分の性格を見比べてみた。

 

www.smile-oyako.com

 

回避型の愛着スタイルの最大の特徴が
親密な関係が苦手で一人を好む傾向があるということです。

 

 (中略)

 

親密な関係性になるとともに伴ってくる
自分への持続的な責任を避けようとする心理があります。

 

 (中略)

 

 

回避型の愛着スタイルを持つ人は
そういう逃げ場のない状態を嫌い、いつでも逃げることのできる

束縛のない状態の方が安心できるため、
人との間でもその傾向がみられます。

 

メッチャわかりみ

まず頻繁に連絡取るとかが出来ないからね。

楽しくネットで遊んでるのにいちいち邪魔されてウザったいことこの上ないんだよ。

ちゃんと別に時間をとってその人となんかするとかだったらいいんだけど、

そんな予定もないのに突発的にそういう状況に持ってかれるのが本当に嫌い。

今はテメーのための時間じゃなくて自分だけのための時間なのって感じ。

 

回避型の愛着スタイルのもう一つの
特徴的なところは葛藤を避けようとするところです。

人との積極的な関わりを好まない理由のひとつに
葛藤を避けるためというのがあります。

 

人間関係って基本面倒くさいからね。

面倒くさい上にウザさの頂点に達したら

何も反応を返さず音信不通になるのを繰り返してきた。

全てシャットアウトだよ、もはや何も気にする必要がなくなるから凄いラク

 

回避型の人は、人との接触や
自己開示を避けるため、

自己表現をする能力が育ちにくいという
傾向があります。

 

今まさにこのブログで訓練中だよ。

自己開示に関してはまた別の記事でやるかも。

 

 回避型の人はとにかく
「面倒くさがり」なところがあります。

やらなければいけないと
わかっていても

めんどくさいと感じることは
後回しにしがちで、

切羽詰るまでほったらかし
という人が多い特徴があります。

自分の嫌なことや、興味のないことも
「回避」しようとする癖があるのです。

また、人との関わりも「めんどくさい」と
感じることがあり、

そういうことを避けるために
引きこもりのような生活に憧れを抱いている人もいます。

 

そういうわけで今ニートです(笑)

昔はもう少しギリギリになったらやってたけど

ドンドン坂を転がり落ちるようにやらなくなるようになったよね。

やらなければならないことの重要度を下げることでやらない免罪符にしてま~す。

 

回避型の愛着スタイルの人は
現状維持をしたいという願望が強い傾向があります。

 

新しいこと始めるのってエネルギーいるからね。

疲れることは基本あまりやりたくないよね。

 

 

 回避型の愛着スタイルの人は

・人に頼る
・助けを求める
・甘える

ということが苦手な傾向があります。

 

そもそもあんまりこういう発想が湧いてこないよな。

その道のプロに相談するとかだったらまだわかるけど、お金かかるからなぁ。

自己開示が少ないのもこういうところにある。

 

 

あんまり当てはまっていない項目もあったけど

流石にバーナム効果で済ませるには

クリティカルすぎる部分が多くあったので色々と興味が湧いたかな。

 

まぁ別にこの性格にあまり不満はないし特別変わりたいとも思ってないけど

自分のことをより深く知れると思うので今後これ関係の本も読んでいこうかな。

音楽というものの不気味さ

 

芸術の中で、美術・文芸・音楽ってあるじゃん。

映像系とかの総合芸術もあるけど、美術に時間の概念が加わったものという超ざっくり解釈でここでは省くことにする。

 

美術はまぁ視覚的なものだよな。絵にしろ造形物にしろ。

人間はかなりの部分を視覚情報に頼ってるし

実際それに左右されることが非常に多いから

それ見て凄い凄くないって感じるのはなんとなくわかる。

 

文芸は言語についてだけど

人間はほぼ言葉でもって思考しているだろうし

情報伝達に関しても言葉がなきゃ話にならない。

生まれてから死ぬまでほぼ言葉に触れているだろう。

だから感情とかを端的に表した文章をいいなって思うのもまぁわかる。

文学とかだと言葉が難解すぎたり、一つのセンテンスだけじゃなくて全体の文脈でもって表現していることを汲み取るには一定の能力が必要だったりするので、伝わらないことも多いだろうけど。

 

でも音楽ってなんだ?そりゃ音の連なりだけどさ。

なんか音楽ってベースとなるものがよくわからないんだよね。

芸術なんかは現実に様々な対象物が存在してるからそれと比較したり出来るじゃん。

文芸なんかは決められた文法とか単語の意味があるじゃん。

じゃあ音楽のそういう部分に当たるのってなんなの?

 

音楽理論とかあるんだろうけど全然知らんし

 

好きな曲とか嫌いな曲くらいあるけど

自分でも全く理由が分からずに曲を聞いたらそういう感情だけが湧いてきて

はっきり言ってちょっと気味が悪いんだよね。

 

 

 

ものすごい雑な例えだけど、アップテンポな曲を聞いたら楽しい気分になるとか

マジで、は?意味わからんが?としかならないでしょ。どういう理屈だよ

 

よくわからんがいい気分になれるオクスリみたいな存在

 

 

 

補足されたくない

 

ニートになってしばらくたってから

ネットで活動する時に凄く気をつかうようになった。

 

どういうことかと言うと、例えばTwitterで平日は夜以外つぶやかないとかね。

ていうかそもそもツイート自体をほとんどしなくなった。

 

別のアカウントを作っても特定される可能性があることはつぶやかない。

これこれのゲームやってますとかこのアニメ好きですとかね。

また意識して文体を変えたりもする。

 

今やゲームもログイン時間とか他人から見えてしまったりもすることが多い。

そういうのは可能ならオフラインで、後は夜しかやらなかったりもする。

 

サイトに訪れる時間なんかも気にすることがある。

変な時間にアクセスしたい時なんかはわざわざスマホで見たりも。

 

このブログなんかも最たるものだ。

3年目のニートであることくらいしかほぼ公表していない。

 

 

年齢も出していない。

 

特定のゲームは挙げずにわざとぼかす。

 

小学・中学・高校・大学と書かずにわざわざ”学生時代”と書いたり。

ここで大学も挙げたことで、あぁ大学には行ってたのかな

と思われることも直ぐ様考えたりする。

 

性格診断をTwitterで見かけたのに”ネット”で見かけたと置き換える。

これは最近あったこの性格診断のツイート主のフォロワーに

自分がいるかもしれないと探られるのが嫌で回避した。

 

図書館で読んだ本のタイトルを挙げないのは

その2冊の蔵書がある図書館が特定されうるからだし。

 

も~~~~とにかく気を使うというか

こういうことしたらこういう理屈で特定される可能性があるな

というのがパッと頭に浮かんでそれを回避するようになってる。

 

とはいってもたぶん特定されることは限りなく低い確率だし

別に全然しらない他人に特定されることで特に実害もないのはわかってる。

 

けどどうしても意識してしまうし特に無理しているわけでもないから

そういうことを明らかにしない表現とかを選択してしまう。

 

なんかわかっちゃいるんだけどやめられないんだよな。

別にGmailの内容をGoogleが覗いていますとかだとどうでもいいんだよ。

誰にでも公開されている情報から誰にでも特定されうる可能性があるのが

なんか妙に居心地悪く思えてしまうのな。

 

自宅にいるのに誰かに覗かれるかもしれないって思ったら

楽しくオナニーも出来ないじゃん、みたいな。

気にしないのが一番楽なんだろうけどねぇ、ニートじゃなくなったら変わるかな?